ザカルパッチャ州 (Zakarpattia Oblast)
歴史的にカルパティア・ルテニアと呼ばれた地方である.
ザカルパッチャ州は、ウクライナ・カルパート山脈の南西部から越カルパート低地にかけての地域ザカルパッチャ(越カルパート地域) に位置している. ウクライナ人が多く住む地方でありの一部でもあった. しかしカルパティア山脈という障壁により、オーストリア帝国、ポーランド王国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国などウクライナと異なる国家に統治され続けた.
9世紀頃にはモラヴィア王国、10世紀以降にはブルガリア帝国、12世紀にはウラジーミル2世モノマフによりキエフ大公国、13世紀にはベーラ4世によってハンガリー王国の版図に組み込まれた. このためカルパティア・ルテニアは聖イシュトヴァーンの王冠の地の一つとして、ハンガリーの固有の領土であると認識されるようになった.
16世紀からはハンガリーはハプスブルク帝国の統治下となったが、まもなくオスマン帝国の支配下となった. 18世紀以降はオーストリア帝国の一部として統治された. オーストリア=ハンガリー帝国の成立後は帝国内のハンガリー王国の一部として統治された. ハンガリー王国時代には、ベレグ、ウング、ウゴチャ、マーラマロシュ、シャーロシュ、ゼンプレーン各県の一部の地域となった.
1918年、第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北し、ロシア帝国もロシア革命で崩壊したため、帝国支配下の民族が分離独立を始めた. フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力は西ウクライナ人民共和国に合流し、ドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を企図した. しかし、ポーランド・ウクライナ戦争により西ウクライナ人民共和国はポーランドに敗れ、結局合同は実現しなかった. サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった.
チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した. ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた. そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた.
1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した. セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語を「ウクライナ語」に定めた. 国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた. 大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した. しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はルーマニアへ亡命、国は亡びた. 「カルパート・シーチ」は同年5月まで武力闘争を続けたが敗れた.
第二次世界大戦末期の1944年11月にはソビエト連邦軍がナチス・ドイツとハンガリーを破り、かつてのカルパート・ウクライナの地域はザカルパート・ウクライナの国号の下、独立を宣言した. しかし、この国家はソヴィエト・ウクライナと合併することになり、1945年7月には消滅した. 1946年にはウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合された.
ソビエト連邦の崩壊に伴い同地は新しく成立したウクライナの一部となった. 当初はウクライナを離脱しチェコスロバキアへの再併合を求める声もあったが、チェコスロバキアがチェコ共和国とスロバキアに分裂したため議論されなくなった. しかし2008年にはムカーチェヴェにて、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言するなど、現在でも「ウクライナ人」と異なる民族意識を持つ勢力が多く存在する特異な地域となっている.